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YMコラム
1月27日「名古屋のホテルで偶然「再会」した懐かしい友の話」

 先週末、名古屋で名古屋周辺の小中学校の校長先生の集まりで話をする 機会があった。講演の後には、大勢の方と交流するチャンスがあり、その 中には、あのイチロー選手の中学時代の野球部の部長さんなどがいて、興 味深い話も耳にした。総合すると、名古屋周辺は、今後の宇宙教育の一大 拠点になる可能性を「人材的に」大いに持っている地域である。

 泊まったホテルで、夕刊を眺めていたら、「ヨガ講師・橋田幸子さんに 聞く」という記事が出ていた。特にヨガに関心が深いわけではないが、何 となく眼を上滑りに走らせていて、ハッとした。──フリージャーナリス トだった夫、橋田信介さん(当時61歳)がイラクで亡くなってから5年半 ──とある。ああ、あの橋田さんだ。一挙に懐かしさがこみあげてきて、 食い入るように新聞の活字に進入していった。

 私が彼から直接聞いた範囲では、橋田信介さんは、確か山口県の宇部で 生まれ、大学卒業後に日本電波ニュース社に入社し、カメラマンとしてベ トナム戦争を現地で取材していた。1975年のサイゴン陥落後にはタイのバ ンコクを拠点にして、主にアジアの戦争報道を手がけていた。湾岸戦争、 カンボジア内戦、ビルマ動乱、ボスニア内戦、パレスチナ内戦、アフガン 戦争などを相次いで取材した。文字通り日本の戦場ジャーナリストのトッ プランナーだった。

 JAXAが設立されるちょっと前に東京であったとき、山口の東京理科大学 で、戦場での体験を講義しているとのことだったが、その後イラクに戻っ たと聞いた。その次に彼の名前を突如発見したのは、2004年5月27日のN HKテレビの画面だった。橋田さんは、この日、自衛隊がイラクで水の供 給をしていることについて、実際にはサマワ近辺では水の入手はさほど困 難でないこと、フランスのNPOが自衛隊の何倍もの量の水を供給している ことをテレビで報告したのだが、サマワの自衛隊駐屯地に立入許可証を受 け取りに行き、マハムディヤで襲撃され、甥の小川功太郎さんと共に殺害 されたという衝撃的で痛ましいニュースだった。私と同じ年のはずなので、 61歳か62歳だったであろう。

 サイゴンが陥落してベトナムでアメリカが敗北を喫した後、一時日本に 帰って来ていた橋田さんは、1980年代の初めからTBSのハレー彗星探査 の密着取材のプロデューサーとして、宇宙科学研究所との付き合いが数年 あった。東京でも内之浦でもたびたび顔を合わせ、ハレー探査が終了した 1986年には私もすっかり仲良しになっていた。

 思い出がある。内の浦でロケットの打上げのために全員集合したとき、 発射場での作業手順を総合的に話し合う「全員打ち合わせ」という会議が ある。当時は300人ぐらいが集まっていた。略して「全打ち」という。橋 田さんがその取材に来た。「これから何が始まるのですか?」と問われ、 思わず「全打ちです」と答えたのが迂闊だったのだが、その夜に内之浦の バーで橋田さんと飲みながら笑ったのは、「的川さん、勘違いしてました。 全打ちというのは全員打ち合わせなんだそうですね。私は、勝手に想像し て、ロケット打上げの前に全員がトンカチみたいなものでロケットをコツ コツと叩いておまじないみたいなことをやるのかと思いましたよ」とのこ と。さすが第一線のジャーナリストはすごい。想像力もここまで来ると芸 術的である。しかし、ちょっと聞いてくれればよかったのに……。

 もう一つ。私が「戦場に潜り込むのにはいろいろ大変な障害があるんで しょ? ジャーナリストだというと受け入れられなかったりするのでは?」 と訊くと、橋田さんが「そうなんですよ。だから東南アジアには蚊が多い ので、《日本のモスキート研究会だ》と言って通してもらったりしました」 なんて言うので、これも呆れ返った覚えがある。

 殺害された頃、橋田さんは、戦争で目を怪我したイラクの少年が日本で 治療を受けられるよう尽力していた。その少年は橋田さんの死後、6月に 沼津の病院で治療を受けることができた。橋田さんたちを殺害した犯人グ ループに対する非難がイラク国内からも猛然と沸き起こり、犯人グループ が謝罪声明を出すに至ったことも、有名なエピソードとなった。

 橋田さんは、冗談話が大好きだった。「アラビア語では《困った》とい うのを《ムシケーラ》と言うんですよ。だから戦場を取材中にうっかり車 を止めると、間違えられて《ムシケーラ》になってしまいます」というよ うなことも話していた。

 橋田さんの思い出話が長くなったが、私が名古屋で眼にした中日新聞の 記事では、橋田さんの奥さんが、彼と息子さんと3人で住んでいたバンコ クのコンドミニアムを売却したことが報じられていた。橋田さんとの生活 を奥さんがいかに大切に思っていたかが深く感じられる素敵なインタビュ ーになっていた。お互い40歳になりたての頃に知り合って数年を濃密に付 き合った思い出をよみがえらせてくれた新聞記事──私にとってありがた い報道であった。心からお礼を申し上げたい。

 その記事の中の印象的だった二つの箇所を紹介する。

1 「バンコクでの葬儀の時、信介さんの遺骨を口にふくんだ」との奥さんの談話。

2 これも奥さんの幸子(ゆきこ)さんの語った言葉、「戦場では生き延びることが最大の課題です。今日は自分の住む地域に爆弾が落ちなかったり、今日はご飯を食べることができたことに戦場ではすごく感動する。だけど、極端な話で言えば、平和だと神経が研ぎ澄まされず、鈍感になり、喜怒哀楽も少なくなる。漠然とは「平和がいい」と言わないほうがいい。平和とされる日本で毎年3万人以上が自殺している。」

(YM)

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