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7月14日「嬉しい出会い、悲惨な出会い、意外な出会い」

1 嬉しい出会い

 昨年暮れ、7年70億kmの長旅を終えて、地球帰還に向けて着々とオペレ ーションをしている「はやぶさ」チームに、可愛らしい筆跡の便りが届き ました(図1)。ちょっと黒っぽい色の紙だったので、多少読みづらいと ころもあるので、以下に書き下します:

 (図1)http://www.ku-ma.or.jp/ym/ym100714-01.jpg

━━はやぶさくんへ。わたしは「あすか」といいます。あすかは、はやぶ さくんがだいすきです。あすかのゆめは「うちゅうひこうしになって、は やぶさくんとあそびたい」というゆめでした。だけどはやぶさくんはらい ねんいなくなってしまうから、あすかはとってもかなしいです。だけど、 あすかははやぶさくんをわすれません。竹本あすかより。

 その右下にお母さんがコメントを書いてくれています━━はやぶさの大 気圏突入のニュースを知った娘は、涙をポロポロ流しながら「宇宙飛行士 になるの、やめる」と言いました。はやぶさのことを本当のお兄さんのよ うに思っているようです。「トランポリンのようにはね返したら?」とか、 色々と考えたことを話してくれます。今では、ハヤブサの兄弟達と遊べる ようにがんばっているようです。あと少し、運用チームの方々もお体に気 をつけてがんばってください。(母)

 泣けてくる便りでした。あすかちゃんの手紙は、深宇宙管制室のすぐ前 の部屋、つまり「はやぶさ」チームがたむろする部屋のホワイトボードに 貼ってあります。そして、さる7月11日の日曜日、相模原の「宇宙の学校」 が開校し、嬉しい出会いがありました。

 「宇宙の学校」のスクーリングが終わった直後、お父さんとお母さん、 小学生の女の子とその弟らしい赤ちゃんの4人連れが私に近づいてきまし た。何か質問があるのかな?と顔を向けた私に、お母さんが一言。「この 子が“あすか”です」と。一瞬耳を疑いました。あの手紙をくれたあすか ちゃんは一体どこに住んでいるのか不明の「幻のあすかちゃん」だったの です。次の瞬間、私は思わずあすかちゃんを抱き締めました。

 相模原市立新磯(あらいそ)小学校の2年生だそうです。ということは、 手紙を送ってくれた時点では1年生だったわけですね。私もうれしくて、 一緒に写真を撮るやら、こちらが質問をあれこれ浴びせるやら、楽しい刹 那を過ごしました。別れが迫ったころ、「ところで、宇宙飛行士 になるのは本当にやめたの?」と訊くと、あすかちゃんは小さな声で、 「やっぱり宇宙飛行士になりたい」と答えてくれました。

 翌日、明日香ちゃんのお母さんの千絵さんからメールをいただきました。 その中に以下のような一節があります。

━━今までに身近な人や生き物との永遠の別れに直面したことがないので、 今回の経験は明日香にとって大きな意味があったのだと思います。最初の うちは、はやぶさの大気圏突入の映像を見ると怒っていました。おそらく 「人が死ぬシーンを何度も見せないで!」ということなのでしょう。最近 は大きくなったら、はやぶさのような探査機を作る!一緒に宇宙に行く! と言っています。

 これを読んで、今度の「はやぶさ」事件は、明日香ちゃんにとって、一 生のかなり最初に近い衝撃的な事柄だったのだと知りました。かく言う私 にとっての3歳のときの「母の背中」のように。あの防空壕から防空壕へ と私をおんぶして逃げ惑っていた母の背中のかすかな記憶は、私に「いの ちの大切さ」を教えてくれた「珠玉の記憶」だったのです。

2 悲惨な出会い

 明日香ちゃんのお母さんと話している時に、ある「悲惨な出会い」のこ とを強烈に思い出しました。先週のうちに偶然3人の人からその「悲惨な 出会い」について質問を受けたからでしょう。エッセンスとも言える部分 を、ISASニュースから転載します。それは、あの防空壕で一度だけ会って、 それきり顔を合わせることのなかった「私と同い歳くらいの子ども」への 鎮魂です。彼はその場で息を引き取り、私は彼の死によって触発された母 の勇気ある行動のおかげで、のうのうとここまで生きてきました。「人々 のためにしっかり生きていかなければ」と、いつもいつも思うのは、消え そうになりながらかすかに残っている、その男の子についての記憶の力で もあります:

            ほむら立つ           的川泰宣

 母が必死で走っている。その背中が激しく揺れる。周りは火の海。頬が 熱い熱い風に叩かれている・・・・・。その後繰り返し夢に見た情景が私 の頭に刻まれたのは、昭和20年(1945年)7月1日のことだったらしい。 この日、呉の町はアメリカ軍からの大空襲を受けて焼け野原になった。

 空から目立たないようにとの配慮から灯火管制をしていた当時の家庭で は、「ウーウーウー」と空襲警報が鳴り響くと、それっとばかりに防空頭 巾をかぶり、一家打ちそろって防空壕へと駆け込む毎日であったらしい。

 私の生涯の記憶の一番初めに陣取っているあの日、父をフィリピン戦線 に送り出した後で、母と二人の兄と一緒に近くの防空壕に避難した。私を 膝に抱っこしていた母が、隣で泣き叫ぶ女性に目をやった途端に凍りつい た。あろうことか、おそらく私と同い歳くらいの子どもがぐったりと首を うな垂れている。

 「窒息死だ」と直感した母は立ち上がった。隣にうずくまる兄たちに 「出るよ!」と叫んだが、二人は動かない。(外は爆弾の雨が・・・)の 意識が足を竦ませているようだ。母は幼い私をおんぶして出口へと強引に 進んだ。兄たちも、降り注ぐ爆弾よりも母を失くする方が怖かったと見え て、気がつくと、火の海の町へ一家4人で飛び出していた。

 隣の防空壕までの500mくらいの距離をひた走るこの時の母の背中が、 私の記憶の最も古いものである(図3)。

 一夜明けて、すっかり焼けた呉の町を、小高い場所から眺めた私が、 「焼けた、焼けた!」と踊りつづけるのを、一瞬のうちに希望を失った大 人たちが、さびしい微笑を浮かべながら見守っていたという。母の背中以 外は、すべて後で聞いた話である。

 母は、毎日の空襲警報で不眠症に陥った私を、父の田舎へ疎開させた。 広島と岡山の県境に近い比婆郡の東城である。老年期の山並みに抱かれた、 母の懐のような村。誰一人知る人のいない環境で、おそらく最初はおずお ずと、やがて幾分は伸びやかに、私はしばらくを過ごした。

 母が東城に私を連れて行った日、帰ろうと見回すと私がいない。仕方な く歩き出した母が振り返ると、雨戸の隙間からじっと見送る私の視線があ ったという。母は泣き崩れながら長兄を抱き寄せつつ帰路についた。(も う母と連れ立って帰ってはいけないんだ)ということを雰囲気で感じ取っ ていたものらしい。寂しい3歳の直感であった。

 どうも日本は負けるらしい・・・呉の町にもちらほらとそんな噂が流れ 始めた日、母は一人で暮らす末っ子の顔を見て来ようと思い立った。呉か ら呉線で広島に出て、芸備線に乗り換えるのだが、広島市内に住む友人を 訪ねようかとの思いは、わが子が待ってるからという気持ちに負けた。

 広島を発って1時間ぐらいした時、広島の空に原子爆弾が炸裂した。そ の母の友達はあの原爆ドームに象徴される爆心地からわずか1kmくらい の所に住み、一家7人全滅となった。

 ちょうどその時刻、広島を背にして腰掛けていた母は、ピカッと何かが 光ったのを記憶している。しばらくして乗務員が「先ほど広島に新型爆弾 が落とされました。みなさん、できるだけ白い服を着てください」と叫び ながら社内を移動していたという。

 母は、この話を小学校時代の私にたびたび聞かせた。「あなたがいたか ら私は命を救われた」と。聞いている私は、いつもおかしいと思っていた。 「ボクがいなければ、お母さんはその日広島に行ってはいないはずなんだ けど・・・」しかし涙を流しながらの母の語りはいつも私を黙らせた。

 そしてついにその母の「誤解」を解くことができないまま、私が大学3 年の春、母は急逝した。「いま空襲が来れば、私がお母さんを背負って走 ってあげるのに」との思いが、その後私の脳裏に浮かんでは消えている。 (ISASニュース2003年4月号No.265から転載)

 (図3)http://www.ku-ma.or.jp/ym/ym100714-03.jpg

3 意外な出会い

 ついでと言っては何ですが、もう一つ、不思議な「出会い」の話をしま しょう。「パウル君」ってご存知ですか。今大会のサッカーの南ア・ワー ルドカップにおいて、ドイツ代表の戦った計7試合と決勝戦(オランダ対 スペイン)、全8試合の予想を的中させたあの「タコ占い」の主役のタコ くんです。タコ君が入っている水槽の中に、対戦する両国の国旗をつけた 容器を設置し、どちらにも大好物の貝を入れておくんだそうです。そして パウル君が食いついたほうが勝ちというわけです(図4)。

 (図4)http://www.ku-ma.or.jp/ym/ym100714-04.jpg

 的中率抜群と聞いて、7月9日に予言する時には、世界から100人以上の 記者がパウル君のいる動物園に殺到し、欧米や中東など計600局ものテレ ビが生中継するほどの世界的関心事になったそうです。準決勝でドイツの 敗北を当てると、ドイツのサポーターからは「パエリアにして食べてしま え!」「いやサラダにしろ!」という声が挙げられて危機にさらされたそ うです。

 しかしスペインの優勝を見事言い当てた時には、パウル君の身を案じた スペインのサパテロ首相が、冗談半分でしょうが、「スペインからパウル 君の保護チームを派遣する」と“緊急声明”を出したり、スペインのあち こちから「天然記念物」として手厚く保護すべしとの意見が出たといいま す。ところで、昨日新聞を何気なく見ていてビックリ。パウル君のいる水 族館が「オーバーハウゼン水族館」と書いてあるではありませんか。

 忘れもしない昨年11月初め、ドイツでISECG(International Space Ex- ploration Coordinating Group:宇宙探査のための国際調整会議)という 会議がありました。「はやぶさ」を指揮した川口淳一郎君に依頼されて、 日本から私だけが参加しました。そうです。その時に近くのネアンデルタ ールも訪ねたのです。そのことは本コラムで当時ご報告した覚えがありま す。

 私は世界中どこに行っても、動物園とか水族館というものがあるとでき るだけ足を運ぶのですが、その時も近くにある水族館を訪れました。その 時に見ていたのです、あの「パウル君」を。名前は記憶していませんでし たが、間違いありません。だって、あれはまぎれもなく、「オーバーハウ ゼン水族館Sealife」だったのですから(図5)。そういえば、いました よ。大きなタコが。

 (図5)http://www.ku-ma.or.jp/ym/ym100714-05.jpg

 それでその水族館のホームページを調べてみたら、パウル君は2008年1月 に、イギリス南部ウェーマス沖の大西洋生まれ。生後3ヵ月で同水族館にや って来てから、サッカーのドイツ・チームの対外戦の勝敗予想を始めたそ うです。2008年の欧州選手権の予想は5勝1敗で、今回のワールドカップの 8戦全勝を合わせると、実に14戦13勝1敗。勝率は実に9割2分9厘です。タコ の寿命は3歳前後らしいですから、2歳半のパウル君はそろそろ加齢のため に「預言者としては引退」なのでしょうね。

 それにしても「縁は異なもの」ですね。

(YM)

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