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7月28日「「はやぶさ」の系譜━━松尾メモから」

 さる7月17日、相模原の宇宙科学研究所キャンパスの向かいにある市立 博物館で、「はやぶさ」の祝賀パーティが開催されました。会場では「は やぶさ」ミッションで活躍された人々への感謝状が次々と授与されました。 それらの人々のスピーチがそれぞれに興味深いものでしたが、前宇宙開発 委員長の松尾弘毅先生のスピーチは、「はやぶさ」計画が成立するまでの 経緯を簡潔に述べられたもので、特に印象に残りました。

 というのは実はウソで、私はスピーチをされる松尾先生を横目で見なが ら、あの天才イラストレーターの池下章裕さんとの会話に没頭していたも のですから、全然聞いていなかったのです(松尾先生、すみません)。と ころが、後ほどそのスピーチの内容をご本人から送っていただいたので、 上記の「特に印象に残りました」が言えるわけです。

 実は松尾先生の目の遠近感が年齢にふさわしい「成長」を遂げて、原稿 を手に持って読もうとすると無理があるのだそうです。そこで昨年だった か、誰かの結婚披露宴で、媒酌人として新郎新婦の紹介をする際に、その 原稿を作ったまではよかったけれど、目の具合を考慮するとその原稿が当 日役に立たないことが判明し、ついにそれを丸暗記して披露宴に臨んだそ うです。そして新郎新婦の両親から兄弟姉妹まで、アカペラで紹介してし たもので、並みいる列席者の驚きを誘ったそうです。ご本人によれば、 「あれは、記憶力を披露したのではなく、情けなくも仕方なかったのだ」 ということになるのですが……。

 というわけで、もう一回言いますが、あの「はやぶさ」祝賀会の松尾先 生のメモがすべてそのまま語られたのかどうかは分かりません。でも私に とってはいろいろなことを思い出させてくれる懐かしいよすがとなりまし た。そのお裾分けをしようと思います。私の余計なコメントもあちこちに 挿入してありますが、ストーリーの大筋は松尾メモに沿ったものです。

 そのメモによれば、糸川英夫先生がまだ東京大学に在籍していた頃、LD -2というロケットの構想がありました。それは、当時直径1.4 mを目指し ていたM ロケットに対して、大直径2.0 mを展望したもので、このロケッ トによって、火星、金星への可搬能力を計算したのが、松尾先生でした。 まだ松尾先生が大学院生の頃です。3年後輩の私はそれにまつわる図(グ ラフ)を描かされた記憶があります。これが、私の知る限りにおいては、 日本における「惑星間飛行の最初の匂い」(松尾)ですね。

 1974年に松尾先生が初めて渡米され、帰国して語ってくれた土産話が妙 に印象に残っています。松尾先生が最も気になった訪問先は、1960年代に 数々の火星・金星への探査機をものにし、1970年代初頭にはパイオニア10 号、11号を相次いで外惑星をめざして派遣しているカリフォルニアのジェ ット推進研究所(JPL)でした。

 日本では、地球周回軌道ならば幾分の実績を積んでいたとはいえ、惑星 間飛行については、手元には簡単な計算プログラムしかなく、このような 簡略化したモデルを用いたミッション計画が、厳密な「あちらの」検討に よって否定されまいかということが気になっていたようです。しかし、JP Lの一線の兵どもとの議論で、「大丈夫」との確信を得て帰国されたよう でした。未経験というのは人を謙虚にするものです(この表現に他意はあ りません。為念)。

 1970年代の末、アメリカとソ連の惑星探査機が次から次へと旅立ち、と りわけボイジャー、バイキングなどのきらびやかなミッションがお茶の間 を賑わしていた頃、日本も地球重力圏の外に脱出する探査機を打ち上げた いなあと、むずむずしている宇宙科学研究所のグループがありました。

 金星オービターや金星大気にバルーンを浮かべるミッションなどを検討 したことはありましたが、今ひとつ迫力に欠けるきらいがありました。何 か目先の変わったミッションはないかと腕を撫している所へ、思いがけな いビッグ・ニュースが飛び込んできたのです。

 ハレー彗星がやってくる!

 1910年に太陽に最接近したハレー彗星は、その後太陽中心の長楕円軌道 に沿って海王星の辺りまで遠ざかり、今また76年ぶりに太陽に(というこ とは地球に)近づいてくるというのです。そのハレー彗星をミッションの ターゲットとする議論を始めて行ったのは、目黒区駒場にあった宇宙科学 研究所の秋葉鐐二郎先生の部屋でした。

 これだ! ハレー彗星ならば、申し分のない星空のスターです。科学的 価値が高い上に計画を立てるための軌道情報が豊富であり、その上だれで も知っている親しみ深い星、ハレー彗星。軌道グループは猛烈な計算を開 始し、打上げ時期としては、1984年末から1985年初めにかけての時期と19 85年の夏が、最適と考えられました。

 しかしそれにしても、これまでの地球まわりの衛星と違って、いろいろ と難しい問題が多く、中でも大きな難関が4つありました。第一は、探査 機を地球重力圏の外へ脱出させ、ハレー彗星のそばまで運ぶことのできる 強力なロケット。第二は、地球まわりの衛星とは全く異なる惑星間空間と いう環境で働く日本初の探査機。探査機がハレー彗星と出会う時、その場 所と地球とは1億7,000万kmも離れている。そんな探査機と双方向の交信を するための巨大なアンテナの建設。これが第三の難関。そして第四に、全 く未経験の分野として、惑星間軌道を飛ぶ探査機の軌道決定用ソフトウェ ア。

 さあ、やることが山ほどあるぞ。宇宙科学研究所の全力をあげての奮闘 がつづきました。後に「伝説の名機」と呼ばれるM-3SUが開発され、1985 年初頭のハレー探査試験機「さきがけ」の打上げでデビューしました。ミ ューは世界の宇宙開発史上初めての「固体燃料ロケットによる地球脱出」 という偉業を成し遂げたのでした。

 「さきがけ」からわずか半年あまり、1985年8月19日には、ハレー彗星の ための本格的探査機「すいせい」がM-3SU-2号機によって打上げられ「さ きがけ」の後を追いました。

 ハレー彗星の探査は、IACG(ハレー探査関係機関連絡協議会)と呼ばれ る国際協力の枠組みの中で行われました。1981年のパドヴァ会議に始まっ て、再び1986年にパドヴァに集うまで、毎年緊密な協議が4機関(ESA、 IKI、 NASA、 ISAS)持ち回りで開催されました。史上最大の宇宙科学の 国際協力とあって、1986年のパドヴァ会議の帰りには、ヴァチカンでロー マ法王パウロ2世の招待を受けたことが、珍しくも懐かしい思い出です。 このIACGは、日本の宇宙を国際舞台に跳躍させました。

 このたびのハレー彗星に接近して観測する探査機は6つありました。ソ 連の「ヴェガ」1号・2号、ヨーロッパの「ジオット」、アメリカの「ア イス」、日本の「さきがけ」「すいせい」です。世にこれを「ハレー艦 隊」と呼びました。少し遠くから眺めるアメリカの「アイス」も含め、 いずれも1986年の3月に最接近しました。

 76年に一度のハレーの回帰を捉えたこの探査の成功は、深宇宙探査機 の設計・運用技術、超遠距離通信、軌道決定等々、太陽系探査にチャレ ンジする日本の惑星間飛行の基盤技術を確立しました。これを契機に現 在も大活躍している長野の臼田深宇宙局を手にしたことも大きな収穫で した。

 ハレー探査で美しいデビューを飾ったM-3SUロケットは、その後日本 の科学衛星の黄金時代を華やかに演出しました。そのプロセスで、次に 太陽系探査の技術を磨く機会が訪れたのは、1990年に月の多重スィング バイを行った「ひてん」の時でした。

 太陽系の探査では、スウィングバイというテクニックがしばしば使わ れます。土星に行くためにまず木星のすぐそばを通り、その重力(と運 動エネルギー)を利用して太陽中心軌道の速度ベクトルを大きく変えた 「ボイジャー」の場合などがその好例です。日本の惑星探査にも、必ず その技術の必要な時代が来ることを見越して、スウィングバイとそれに 関連した技術を修得するための工学実験衛星として、「ひてん」が計画 されました。初代の上杉謙信から数えて17代目の当主、上杉邦憲先生が その指揮を執りました。

 「ひてん」は、1990年1月24日、ハレー探査機と同様にM-3SIIロケット によって地球周回の長楕円待機軌道に投入されました。軌道に乗った 「ひてん」は、月の重力と運動エネルギーを活用して、加速スウィング バイ、減速スウィングバイを何度もこなし、所期の最大の目的を達成し ました。そして孫衛星「はごろも」の月周回軌道への投入をした後、大 気に探査機を突入させる際に生じる大気抵抗を利用して軌道の変更をす る「エアロブレーキ」と呼ばれる技術を世界に先駆けて実証したのも、 実は「ひてん」でした。

 M-3SIIロケットの1・2号機によるハレー彗星探査機「さきがけ」「す いせい」の連続打上げが成功し、その余韻醒めやらぬ1985年秋口、Mロ ケットシリーズの開発の歴史によって培われて来た技術をつぎ込み、5年 後の打上げを目標として新たなロケットの開発が始まりました。

 こうして21世紀を前にして登場したM-Vロケットは、半世紀にわたっ て繰り広げられた日本の固体燃料ロケットの栄光と悲劇を、まさに具現 化するものとなりました。世界一の固体燃料ロケットとして登場し、そ の栄光の頂点にあって、世界中のロケット関係者が不可思議な面持ちで 見守る中で、惜しまれながら引退させられました(この表現は微妙です。 ここだけは松尾メモになかったことなので為念)。

 M-Vロケットは、世界初のVLBI衛星「はるか」、火星探査機「のぞみ」、 小惑星探査機「はやぶさ」、そして世界をリードする天文衛星三羽ガラス 「すざく」「あかり」「ひので」を軌道に送り、2006年9月、静かにMロ ケットの幕を閉じました。

 1990年代後半の惑星探査ミッションに対応すべく立ち上がったM-Vロケ ットでしたが、それらのミッションを遂行するに当たって、数々の新規 の工学技術の習得が必要であるとの認識が、宇宙科学研究所にはありま した。そして、M-Vを制式化することに伴って、衛星/探査機工学の相対 的比重が増すであろうことが予想され、その中から「工学実験探査機」 (MUSES)というシリーズの考え方が戦略的に誕生しました。

 MUSESとはMu Sapce Engineering Spacecraftの略で、「ミューロケッ トを用いる工学実験探査機」ほどの意味です。その一番手はM-3SUによ るMUSES-A(ひてん)であり、その後2番手がM-VによるMUSES-B(はるか)、 3番手がMUSES-C(はやぶさ)でした。アメリカに比べて小さな予算で世 界第一級の宇宙科学をめざすわが国であってみれば、こうした戦略眼を 大事にできるかどうかが、今後も帰趨を決めることになるであろうこと は疑いありません。

 1997年2月12日、鹿児島県内之浦町の鹿児島宇宙空間観測所からM-Vロ ケットの1号機が飛び立ち、工学実験衛星「はるか」を軌道に投入しま した。21世紀に向けて画期的な滑り出しを見せたフライトでした。

 そしていよいよM-Vロケットの3号機によって、日本はハレー探査以来 の地球脱出に挑むことになりました。めざすのは火星です。打上げに先 立って「貴方の名前を火星へ」キャンペーンが展開され、27万人からの 応募が寄せられました。その声をバックに、火星探査機「のぞみ」は19 98年7月4日、内之浦を旅立ちました。

 「のぞみ」の旅路は波乱万丈となりました。最初のスウィングバイに おける燃料の使い過ぎ、恐らくは巨大な太陽フレアの直撃によると思わ れる電源系の故障。そのたびに身を削って再起を期した「のぞみ」の技 術者たちの奮闘は、思い出すだに身震いがするほどの凄まじさでした。 その5年余にわたるミッションから日本の宇宙科学陣の得たものは大きく、 その後の「はやぶさ」をはじめとする探査機に活かされたものも多くあ ります。

 火星には届いたものの、ついに火星周回はかなわず、フライバイして 惑星間空間に飛び去った「のぞみ」は、今でも27万人のみなさんの名前 とともに太陽のまわりを回り続けています。

 ハレー彗星への挑戦を開始した1980年代から、彗星と並んで「太陽系 の化石」と呼ばれる小惑星への関心は、日本の宇宙科学者の間には根強 いものがありました。

 「すいせい」の打上げを2ヵ月後に控えた1985年6月、鶴田浩一郎先生 の主宰によって「小惑星サンプルリターン小研究会」が開かれました。 そしてその翌年には小惑星アンテロス(Anteros)をターゲットとするサ ンプルリターン構想がまとめられています。

 宇宙科学研究所のシナリオでは、「小研究会」から始まった議論は、 機運が熟してくれば「ワーキンググループ」に発展し、それがやがて 「プロジェクト提案」となって、宇宙研の理学委員会ないしは工学委員 会に提出されます。そこでいくつかの本気で提案されているミッション 提案としのぎを削った上で、勝ち抜いたものが宇宙研から正式に「プロ ジェクト」として宇宙開発委員会で陽の目を見るのです。

 このアンテロスを対象とする1980年代のサンプルリターン構想は、90 年代の実現を想定しており、化学エンジンの使用が前提になっていたの ですが、全体の空気としては時期尚早と判断され、プロジェクトとして 出て行くことはありませんでした。

 ただし、地球近傍小惑星をめざしていたので当たり前とはいえ、今見 ても驚くほど、「はやぶさ」で実現した軌道計画と酷似しています。そ して、この時早くも、惑星間軌道から直接地球大気圏に再突入させる技 術が提案されていることは特筆してよいでしょう。

 このように、鶴田先生のもとに当初理学ミッションとして検討されて いた小惑星サンプルリターン計画は、工学的要素が非常に多いことから、 宇宙工学委員会の下にワーキンググループを作って検討を進めることと なりました。そして1995年3月の工学委員会においてこの計画を工学ミ ッションとして研究所に提案することが承認されました。他方宇宙理学 委員会の方では、赤外線天文衛星を次期計画として推すことを決定し、 2000年度をめざす次期の宇宙研ミッションは、小惑星サンプルリターン と赤外線天文衛星との一騎打ちとなったのです。

 しかし、バブルが弾けた後に押し寄せてきた宇宙開発予算への圧迫は、 この決断に当たっても鋭い影響がありました。出された結論は、「予算 の平滑化のため2000年度における打ち上げ計画は断念せざるを得ず、打 ち上げ時期に制約のあるサンプルリターンを6ヵ年計画として要望、赤外 は2002年夏打ちを前提として最大限努力する」というものでした。

 これに沿って、宇宙開発委員会に小惑星サンプルリターン計画の承認 を要望し、1995年8月、この野心的な計画はMUSES-Cとして認められるに 至ったのです。この時の対象は小惑星ネーレウス、打ち上げは2002年1 月とされました。鶴田先生が「小研究会」を主宰してから実に15年の歳 月を経た上でのミッション認可でした。

 その後、2003年5月に打ち上げられ、「はやぶさ」と命名されたMUSES-C の旅については、多くが語られています。今日は、少し長くなりましたが、 その前史を、松尾弘毅先生のメモをもとにして(ご本人の許可なく)書かせ ていただきました。失礼をば致しました。

(YM)

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