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YMコラム
6月22日「科学衛星の命名ものがたり(6)」

 名機M-3SUロケットは、「ひてん」の後で「ようこう」「あすか」を打ち上げ、最終の8号機でEXPRESSを打ち上げた。EXPRESSは有終の美を飾ることができなかったが、「ようこう」「あすか」は見事な足跡を天文学に残した。

ようこう(陽光、YOHKOH)(旧名SOLAR-A)── 過去の太陽像を塗り替える

 太陽観測衛星「ようこう」は1991年8月に打ち上げられた(図1)。コロンブスから500年と銘打った国際宇宙年(ISY:International Space Year)の前年だった。ISYを記念する意味で、それまで実験班だけで愛称公募をしていたのを、一般の人々にも拡げようということになった。結果として全国から3,000通を越える投票があり、漫画家の松本零士さん等も入ってもらった選定委員会で、愛称決定の作業に入った。


(図1)「ようこう」衛星

 得票が最も多かったのは「にちりん」(日輪)だったが、何となく抹香くさいということで落選。最後まで残ったのは、「ひみこ」「かがやき」「ようこう」の3つだった。 委員の支持がいちばん多かったのは実は「ひみこ」だったのだが、いざ漢字をどうするかという段になってもめた。本来なら「卑弥呼」だろうが、これは難しすぎるという意見が出て、「日美子ではどうか」「何だか斎藤栄っていう作家の主人公に似てるな」などという往復があるうちに、何となくふるい落とされてしまった。結局1回ではケリがつかず、決定は2回目の選定委員会に持ち越された。

 さて、第二回の選定委員会は外部からの委員のうちでも超多忙な漫画家の松本零士さんのスケジュールに合わせて設定されたのだが、その日の朝になって零士さんから、「帯広で講演を頼まれていたのを忘れてまして」と電話がかかってきた。選考の最終段階で「かがやき」と「ようこう」が委員会の中でほぼ同数という展開になった時に、松本さんの欠席が効き、結局「ようこう」の勝利となったのである。会議への出席というのは大事なことである。それにしても「ようこう」は大活躍した。画像処理の見事さもあって、太陽フレアを中心とする太陽像を一新し、一世を風靡した(図2)。


(図2)太陽フレア(ようこう)

 アメリカのように計画段階での名称がそのまま軌道投入後も使われるシステムと異なり、内之浦で採用してきたようなやり方には遊びの感覚があって、評判がいい。今後もこのゆとりを象徴するような命名劇が展開する時代の到来が期待される。

あすか(飛鳥、ASCA)(旧名ASTRO-D)──X線天文衛星の4番機

 打ち上げ前に田中靖郎先生(図3)に「衛星の名前について腹案があれば」と問いかけたのだが、先生方は「まあいずれにしてもそんなことは考えている時間がないので」とたしなめられた。「なるほど、ごもっとも」というわけで、打ち上げ準備の忙しい時期に声をかけたことを恥じた。


(図3)田中靖郎

 ところが、所内の投票を終えて、選定委員会を開き、田中先生も出席したのだが、その場での田中先生の発言は、どう見ても周到に命名のことを考え抜いていた様子なので、みんな開いた口が塞がらなかった。田中先生としては、「あすか」しか考えられないと仰る。しかもそのAcronymは、ASCA(Advanced Satellite for Cosmology and Astrophysics)たるべし、というのである。みんなあっけにとられたまま「あすか」に決まった。そして1993年2月20日に軌道に乗り、そのように記者発表された。

 しかもこの「あすか」もよく働いた(図4)。ヨーロッパの宇宙科学計画づくりの議論に出席した当時の西田篤弘ISA所長が、「ヨーロッパでは、宇宙科学計画を立案するためには、“ASCA”の成果をしっかり総括しなければいけない、と言ってた」と、驚きの感想をもらしたのを、私は昨日のことのように憶えている。


(図4)ASCA

EXPRESS──数奇の運命をたどったM-V最後の打ち上げ

 EXPRESS計画というのは、1980年代の終わりにM-3SUロケットを使って微小重力実験をしたいというグループからの要請で始まったプログラムである。結局のところ1990年、日本とドイツの協力で実施することになり、日本側は通産省と文部省が主体となって、宇宙で新種の材料を創ることと再突入技術を習得することを目的として、カプセルの飛行実験を行う方向で大筋の合意が得られた。

 ところが、ドイツとの協力がキックオフする直前、1989年秋にベルリンの壁が崩れたことで、計画の進行は著しく困難となった。予算を切り詰めて努力を重ねたが,ドイツ統一の結果として必要となった対ロシア支援とこの計画をリンクさせることで打開を図った。この結果ドイツがロシアからカプセルを調達し、搭載実験や西側機器をとりまとめることになって、1992年秋に計画が再開された。

 最終的に1995年1月に打ち上げられたが、2段目の不具合により軌道突入後3周目で機体を失った。ISASとしては、1976年以来久しぶりの打ち上げ失敗であった。なお、関係した機関が多いため、ISASだけで調整することが難しく、新たに愛称を命名することはやめた。

ところがである。ロケットの不具合調査や日独関係機関との後始末などすべて一段落した1995年11月末,「ガーナでカプセル発見」の報が突然舞い込んできた。そして1996年3月にカプセルをドイツに回収し(図5)、再突入飛行に関わる耐熱特性などについて一定のデータが得られ、ゼロであった実験の成果は一気に増えた。 それまで全機成功のM-3SU型の最終号機を成功で飾れなかったことは打撃だったが,その教訓はM-Vに十分に生かされた。再突入技術については「はやぶさ」などの新しい展開の基となった。冷戦終結の荒波にもまれ,国際協力を進める上での様々な教訓と多くの経験を残し、EXPRESSミッションは終了した。


(図5)ガーナで拾われたEXPRESSのカプセル

(YM)

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