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11月17日「歴史に学ぶ(1)独創を尊ぶ気風」

 20日ほど入院して、11月16日に退院しました。入院中に、これまでの日本の宇宙開発から、どのような教訓を引き出すべきか、思案しました。その一端を少し連載します。

──「糸川先生、そりゃ無茶ですよ。レーダーがなければロケットを打ち上げても、飛んでいくロケットがどこにいてどんな速度なのか判断しようがないですから」
──「えっそうかい? それは上に向かって打った場合だろ?」
──「だってロケットは上に向かって打つもんでしょ?」
──「そうと決まったもんでもないだろ。ニュートンさんの運動方程式には、初めから発射角が入っているわけではないよ。発射角をゼロにしたって、方程式は解けるよ」
──「えっ、じゃあ先生はロケットを水平に打つつもりですか?」

 日本の宇宙をめざすロケットは、このような会話から開始されました。ロケットを早く打ちたい──欲望は常識に先行する。これが糸川英夫先生(図1)の真骨頂でした。


(図1)ペンシルロケットを持つ糸川英夫先生

 これより先、1954年2月、当時六本木にあった東京大学生産技術研究所(図2)の糸川先生の命を受けて、富士精密鰍フエンジニア、戸田康明さん(図3)は、ロケットの燃料を探し求めていました。すでに糸川先生は、固体燃料で出発するということを決心していましたので、当時の火薬分野の第一人者、村田勉さん(図4)を訪ねて、はるばる愛知県武豊の日本油脂鰍ワでやってきました。そこで村田さんからの協力をとりつけ、利用可能な推薬として渡されたマカロニ風のダブルベース(無煙火薬)を東京へ持って帰りました。そのちっぽけなマカロニ推薬に合わせて設計・製作されたのが、「ペンシルロケット」です。


(図2)東京大学生産技術研究所(六本木)


(図3)若き日の戸田康明さん(真ん中)


(図4)ありし日の村田勉さん

 ところが、その頃はまだ日本のレーダー技術は未熟でしたので、上記のような会話になったのです。その後は推して知るべし。「どうも糸川先生は水平でもいいから、とにかくどうしても発射したいらしいぞ」ということになって、みんなで苦心惨憺してひねり出したのが、1955年4月12日に都下国分寺で実施された有名な「ペンシルロケット水平試射実験」です。その場所は現在早稲田実業高校の敷地であり、当時の実験場所の真上で、今はあの名門野球部の高校生たちが、元気に声を掛け合いながら猛練習に汗を流しています。その正門前には、2005年に「ペンシルロケット顕彰記念の碑」が作られました(図5)。


(図5)ペンシル顕彰記念の碑(国分寺)

 ランチャーから水平に発射されたペンシルは、正確に2 mおきに立てられたスクリーンを次々に破りながら20 mほど向こうの砂場に突き刺さりました(図6)。それぞれのスクリーンには細い針金が貼りつけてあり、ロケットが吸い取り紙のスクリーンを通過する際に貼り金が切られて行きます。針金はオッシログラフにつながれており、切られたタイミングは正確に記録されます。針金を切った時間差とスクリーンの距離から、速度は計算され、その差分をとれば加速度は分かります。


(図6)スクリーン貼り2

 しかもロケットの頭の部分は取り換え可能になっており、3種類の金属で作られました。スティール、真鍮、デュラルミン。ロケットの重心の位置が変えられるのです(図7)。尾翼も取り付け角度が、0度、2.5度、5.0度の3種に帰られました。その結果起きるスピンは、スクリーンの敗れ目の形で判定されます。ロケットの飛翔経路は、高速度カメラで念入りに観測されました。世界でもユニークなこの実験は、後に注目を浴び、ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に展示されたのは、1990年代の半ばのことでした(図8)。


(図7)分解されたペンシル(一番左に頭部)


(図8)スミソニアンのペンシル
 1955年4月に、このペンシルロケットは合計29基水平発射され(図9)、糸川先生の狙い通り、水平に打ちながらも見事に「ロケット」の飛び方についての貴重なデータを蓄積したのでした。日本の宇宙開発はこうして極めて独特の姿で始まりました。


(図9)ぺンシル高速度カメラ

 先行するデータもない、金もない、資材もないという状況で、「宇宙をめざすロケット」を開発する」という壮大な計画が立てられ、その一歩が、長さ23cm、直径1.8cm、重さ200グラムのロケットだったこと(図10)、しかもレーダーがないから、普通なら「順序としてはまずレーダーをきちんと作って、その後にロケットを打ち上げる」という運びになるのが自然な成り行きでしょう。


(図10)ペンシル3種(右が国分寺のペンシル)

 それを「飛ばしたい」という欲望が前面に出てくることに、糸川先生の「わがまま」を感じるのか「情熱」を感じるのかは、各自の自由ながら、私には、糸川先生が、「金がなければ頭を使えばいいんだよ」と笑っているように思えます。「ロケットは上に向かって打ち上げるもの」という常識や先入観念にとらわれていれば、日本のロケット開発の始まりは、はるか後年にずれ込んでいたでしょう。

 外国でやってきたことを真似することだけを基本にして、自分たちの頭脳を独創的に働かせることを怠れば、いつも人の後を従いていくことしかできないでしょう。日本の宇宙科学グループが常に求めようとしている「独創性」は、この一番初めの「ペンシルロケット」の時にすでに胎内に定着した伝統だったのです。

 しかもこの時、ペンシルロケット実験の編成表を見ると、以下のようになっています。

総指揮糸川英夫
記録班野村民也、長谷川毅、山口文二
消火班戸田康明、加志村徳次郎
警備班寺田光一、中島文子、尾崎幸子
気象班寺沢達二、後藤滋
測量班高橋裕、大島太市、水野俊一、中島国明
高速度カメラ班植村恒義、伊藤寛治、山本芳孝、重永興一、戸田健次、森重照夫
電源班稲葉博、進藤満勝
オッシログラフ班秋葉鐐二郎、横田和丸、猪瀬博、永井達成
ターゲット班吉山巌、桜井義雄、金沢磐夫
ペンシルロケット班磯田正路、長岡忠彦
ランチャー班恒見恒夫、杉浦功、辰見博司
救護班東大清水内科(13人)

 ほとんどが2、3人。小さな小さな編成です。これをわざわざ大袈裟に「班」として編成したところに、私は糸川先生の驚くべき計画性を見ます。これから大きく世界に羽ばたく日本の「宇宙」の将来を夢に見て、各班を(現在のような)数十人の班に育てて行く青写真が、他ならぬこの小さな編成表(実験分担配置表)だったのだと、私は嬉しい気持ちでいつも眺めるのです。

 グローバリゼーションが進んで、世の中は、外国の良いものはどんどん採り入れて行くことを基調とするようになっています。しかしそれを手に入れる条件が、金銭面その他のために存在しない時もあります。のみならず、やりたいための目標が新しいものであればあるほど、そのための技術が世界に見当たらないこともしばしばです。その時に要求されるのは、常にこの「自分の頭脳を独創のために働かせること」です。あらゆる行為に先だってそれを実行することが、大きな課題を抱えた日本の私たちが、座右に据えるべき事柄だと、私は信じています。(つづく)
 

(YM)

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