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YMコラム
8月29日「ニール・アームストロングの死」

 人類史上初めて月面の土を踏んだアポロ11号宇宙船の船長だった飛行士、ニール・アームストロング(図1)が、さる8月25日に亡くなった。最近心臓のバイパス手術を受けて、その後合併症を患っていたらしい。


(図1)ニール・アームストロング飛行士

 彼は、米国オハイオ州で生まれ、海軍に入って朝鮮戦争に従軍した。大学では航空宇宙学を専攻し、卒業してから米国航空宇宙局(NASA)入りした。宇宙飛行士になったのは1962年のことである。

 彼が月面を踏みしめた直後の第一声──「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」──という言葉に、世界の人々が感動の拍手を送った(図2)。当時は、世界最初の人工衛星スプートニク1号を旧ソ連が軌道に送った1957年以来、資本主義対社会主義の闘いが宇宙と言う舞台で激しく展開されていた。アポロ11号に先立つ10年間、ほとんど常に旧ソ連に先を越されていた米国は、この有人月面着陸によって、アメリカ中を沸かせた。


(図2)星条旗とアームストロング

 アームストロング船長の操縦する着陸船イーグルは、度重なる危機を乗り越えて、1969年7月20日、非常にスムーズに月面に降り立った。2009年にアポロ11号着陸40周年で日本を訪れたバズ・オルドリンと銀座で対談したことがある(図3)。以前にも一度だけ米国惑星協会の評議員会で顔を合わせたことがある。この二度目の出会いのとき、バズは、「いつ着陸したか分からないほど見事な操縦だった」と語っていた。ジェットパイロトとしても腕利きのアームストロングの面目躍如というところである。


(図3)バズ・オルドリン(中央)と(2009年6月17日)

 20年以上も前の話だが、私がヒューストンのジョンソン宇宙センターの食堂でアームストロングと同じテーブルを囲んだことがある。もう一度はケネディ宇宙センターだった。ヒューストンで初めて会ったときに感じたのは、オルドリンと比べて寡黙で、学者然とした雰囲気の人だということである。しかし、月面着陸のことを語るときに輝くような目の光が印象的で、「まあ月へ行くとしたら、生きて帰れないかもしれないとは思っていたよ」と語っていた。彼は、「月面に着陸できるのは50%、地球に帰還できるのは80%」と発言したことがあるそうだが、これを「地球には帰れると思った」と解釈する人が多い。しかしこれは彼一流の表現で、常識的に見て、80%は実現確率として高いものではない。やはり「帰れない可能性もあると思った」と解釈すべき数字であろう。

 月から帰還後はNASAを引退し、シンシナティー大学で教鞭をとった。あまりマスコミの前面に出て華々しい活躍を見せる人ではなく、地味な人柄だった。しかしその大義を果たすための燃えるような情熱を、現在の閉塞感が漂うアメリカでも、惜しむ声は大きかったようである。

 マーキュリーやジェミニの宇宙船を設計した天才技術者マキシム・ファジェイ(図4)が相模原の「水車園」で語っていたように、「初期の宇宙飛行士たちは、とにかく宇宙船をできるだけ自動化しないで、飛行士の出番をいっぱい確保しろと言って聞かなかった。命知らずのとんでもない奴等」だったらしいが、このアームストロングも間違いなくその「奴等」だろう。現代の若者たちが学ぶべき人たちである。


(図4)マキシム・ファジェイ

    民族が大きく、たくましく栄えたのは、
    その息子たちが冒険を愛したからである。
       そして、民族が衰え、没落したとすれば、
       それはただ、その息子たちが
         危険への喜びを失ったからにすぎない。
                 ── ヘンリー・へーク

(YM)

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